称賛と叱責

 マキャベリは「君主論」の中でこう述べている。

 要するに、悪しき行為は一気にやってしまわねばらないのだ。そうすれば、それを人々が味わわねばならない期間も短くなり、それによって生ずる憎悪も少なくてすむからである。
 とはいえ、恩恵は、人々に長くそれを味わわせるためにも、小出しに施すべきである。

 これを教師の立場に引き寄せて考えれば、こうなる。

 要するに、叱責は一気にやってしまわねばらないのだ。そうすれば、それを生徒が味わわねばならない期間も短くなり、それによって生ずる憎悪も少なくてすむからである。
 とはいえ、称賛は、生徒に長くそれを味わわせるためにも、小出しに施すべきである。

 つまり、叱るときはねちねち叱らず、一度きつく叱ってしまえば後は二度とそこのことを持ち出さない。逆にほめる時にはことあるごとにそれを持ち出し、何度でもしつこいくらいにほめる。

 叱責は必要な時にそれが為されないと、生徒のためにならないのはもちろん、教師のためにもならない。しかし、人を叱るのは大変なエネルギーと覚悟と自制心を必要とする。また、生徒にとって叱られるのは何にもまして避けたいのはもちろんのことだ。だから、どうせ叱責せねばならないなら、教師にとっても生徒にとっても一番いい形で終わりたいと願うのは言うまでもない。ではその一番いい形での叱責、とは具体的にどうすることか、をマキャベリは教えてくれている。

 ということは、ほめる時にも生徒にとっても先生にとっても一番いい形、というのがあるはずである。この「ほめる時にはことあるごとにそれを持ち出し、何度でもしつこいくらいにほめる」方法ほど、ほめるに値する行為や言動の少ない劣等生を称賛するときに有効な手段はないであろう。